ご挨拶

第6回日本統合医療学会岡山支部総会・学術講演会の開催にあたって

日本統合医療学会岡山支部・支部長
川崎医科大学消化器外科 主任教授

上野 富雄

第6回日本統合医療学会岡山支部総会・学術講演会の開催にあたり、一言、ご挨拶を申し上げます。

一旦、鎮静化していたコロナ感染症ですが、思いもしなかった第7波という大波が再び日本を襲っている現在、原稿を執筆しています。残念ながら日本統合医療学会岡山支部総会・学術講演会はこの2年間、コロナ禍のため、対面での開催の中止を余儀なくされておりますが、昨年は第6回でも基調講演をいただくことになっている黒住宗道先生のご懇意により、コロナ禍の中、会員一同の心に勇気をいただけるようなWEBでのご講演を賜ることが出来ました。
黒住先生にはこの場をお借りし、改めまして御礼を申し上げます。

 

さて、本年度の日本統合医療学会岡山支部総会・学術講演会の開催にあたっては、先日のWEB役員会において(第7波の真っ只中ではありましたが)、行動制限は行わないという国の政策であれば、今年は会場を変更してでも講師の先生方にはお集まりいただき、ウェビナー(インターネット上で配信するセミナー)の形で会員の皆様、そしてご参加を希望されている皆様方に最低でも発信しようという方針になりました。

 

 その第6回日本統合医療学会岡山支部総会・学術講演会ですが、中止となった第4回、第5回と同様に、『宗教と医学・社会福祉学を考える-宗教者が統合医療に期待するところ』をテーマとし、私が会の企画を担当いたしました。

 私は父が亡くなるまで、宗教にはあまり関心がない方でしたが、実家には仏壇もあり、母は毎朝お仏飯をあげ、朝な夕な、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と唱え、『般若心経』をお勤めし、私も幼い頃は、母とともに仏壇の前に着座し、「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と言いながら、耳から覚えた『般若心経』を諳んじていましたので、決して仏縁が無かったわけではないのかもしれません(ご存じの方もおられるかもしれませんが、私が属する浄土真宗本願寺派は元来、他力本願ですので、自力本願の教えである『般若心経』は唱える必要がありません。それくらい実家も宗教にはどちらかと言えば疎い方だったのかもしれません)。

 身内の死をきっかけに、お寺さんとのご縁があり、同時に「ヒトは死んだらどうなるのか、どこから生じ、どこに消えていくのか」といった、ある意味、哲学的、ある意味、医学的な観点から、宗教に興味を感じ、中央仏教学院通信教育部専修過程(僧侶資格を得ることを目的とした3年間のコース)に籍を置き、真宗、仏教、宗教を学ぶ機会をいただきました。

 医療現場は、人生の終末期に苦しんでいる人を否が応でも見る機会の多い職場です。お年を召した方もいますし、若い方もいます。回診等でそのような方に接する機会が多くなるにつれ、西洋医学的なアプローチだけでは肉体は癒せても、精神的に寄り添うことの難しさを感じてきました。

 

 宗教は教義によっては、戦争の原因にもなるくらいですし、怪しい宗教にハマると恐ろしいものにもなりかねません。友人、知人、ましてや家族と、宗教がもとでトラブルを経験した方もおられると思いますし、真偽のほどはわかりませんが、奇しくも安倍元首相の暗殺も怪しい宗教との絡みが動機とも言われています。マルクスが「宗教はアヘン」と言ったとか、言わなかったとかありますが、日本人はかつての自分を含め、宗教にはむしろアレルギーを感じる方が多いようにも思いますし、宗教的な企画はタブー視される傾向にあるようにも思います。そのため、欧米のように宗教者が病院にいる光景はほとんどなく、むしろ不自然と思われがちです。しかし、近代医学が誕生する17世紀以前には、日本や欧米においても医療と宗教は一体化していた歴史を考えても、宗教と医学には密接な関係があるはずです。

“病気をみずして、人をみよ”と教わります(教えます)が、実臨床では西洋医学的なアプローチでは何も解決できない限界と無力感を感じる方は多いのではないでしょうか。スピリチュアルな統合医療のアプローチにより、終末期だけでなく、日常診療の場においても、宗教者も含めた統合医療の従事者が当たり前のように病院に出入りするといった光景はどのようにすれば実現できるのでしょうか。


一言のわりに挨拶が長くなってしまいました。続きは会場にて、統合医療の役割について、皆様と対面でディスカッションできれば幸いです。最後に、本会の開催にあたり、ご後援をお引き受けいただいた『西本願寺医師の会』、ならびに助成をいただいた『公益法人 川崎医学・医療福祉学振興会』の関係者各位に心より御礼を申し上げます。